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 回顧は老人の追想談になるのが普通で,それは通例不確かなものであることが世間の定評であるようであります.それは当然不確かになるべきものだと考えられます.遭遇というか閲歴というか,つまり現在の事だって本当には分らない.それは当然主観的である.しかも過去は一たび去って永久に消滅してしまう.そうしてそれを回想する主観そのものも年とともに易って行くのであるから,まあ大して当てになるものではない.これは一般にそうだろうが,今私の場合は確かにそうなのだから,むしろ始めから,自己中心に,主観的に,過去を回顧すると,明言して置くのが安全であろう.
 大学(東京帝国大学)へ私が学生として来たのは1894年――日清戦争が起った明治27年である.西暦のこの数字は,後に引合に出るから,序でに言って置きますが,それから十年後,すなわち1904年には日露戦争,それから又十年後の1914年には第一次世界大戦が夫々起ったので,非常に記憶し易い数字であるが,とにかく1894年に田舎から東京へ出てまいった.

 Wilhelm Weber 町29番地.H先生のお宅も随分久しいものですねェ.昔ながらのささやかな――あれは「柴折戸」としておきたい.それから広くもないあの「前栽」.それはしかしながら三十年間に木立が茂って,李だか梨だか,暗くて分らないが,丁度季節ではあり,定めて老先生夫婦の食卓を賑わせていることでしょう.玄関は矢張り暗いが,勝手を知ったNさんは殆ど案内を乞わないで,「来ましたよ」の科白と取次ぎに出た女中とを跡に残して,さっさと例の客間へ僕を導きました.電話で言ってあったのでしょう,「承知していましたよ.よく来てくれたねエ」と言いつつH先生は直ぐ出て来られました.今年丁度七十歳のH先生は血色もよく,昔ながらの童顔に微笑を湛えていられます.四五年前に先生は難治の重病で,病名はラテン語で何とやら,聞いても忘れましたが肝臓の故障らしい,一時は殆ど絶望の状態に陥られました頃,丁度アメリカで新薬が発見されて,其の為に一命を取り留めたということです.

 平ヶ岳の記事は従来刊行された地理書には絶無であるから、極めて僭越でかつは大袈裟のようではあるが、自分を主としたこの山の記録とでもいうような事と、自分がこの山に興味を持って、数回の失敗を重ねて、ようやく登攀を試みた筋道を一通り陳べて見ようと思う。
 今から十五、六年前に、自分が小出町へ遊びに行った時に、三魚沼は深山地であるが、何という山が一番に高いかと、郡役所の書記をしておられた小島という人に聞くと、先年参謀本部の役人が調査されて、鶴ヶ岳という山が第一だと申されたと咄してくれた、これが自分が鶴ヶ岳と呼ぶ山が、自分の住居している国に存在しているという事を知った初めであって、何んとなく気持よく自分の耳に響いた、地図を見ると輯製二十万分一図の日光図幅にも、地質調査所の四十万分一予察図にも明記してあるが、いずれも標高を記してない、しかし三魚沼の最高峰とすると、吾が北越の山岳中でもかなり高いものとなるから、二、三年の中には是非に登攀してみようと考えた。